太平洋戦争で衰えた梨栽培は、戦後大飛躍期を迎えました。国内では人手が余り労働賃金は安いという状況下でした。農地解放により自作農になった農家にとっては、梨は魅力のある価格で取引されていました。鳥取県では新たな栽培者が急増し、1960年には1万戸を越えました。そこで生産者、学者、行政が一体となって栽培技術を標準化しました。新たな栽培者を指導し、出荷量は急激に増えたため、供給過剰となり梨の価格低下を招きました。